動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない 書評


動物と人間の世界認識 書評
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イリュージョンって何ですか?

本書は、動物や人間が周囲の環境をどのように捉えているか、”イリュージョン”という言葉をキーワードに紹介するものである。著者は動物行動学の権威であるらしい。

実は、著者が言うところの「イリュージョン」がなんであるのか、特に、本書の中で紹介されているユクスキュルの「環世界」とどのように異なるのか、よくわからなかった。(イリュージョンのほうが客観的世界に実在しないものをも含めた、より広い概念?) 本文中を見る限り、著者は明確な定義をしていないようだ。ただ、環世界に関しては、以下の文章が的確に言いたいことをあらわしている。

環世界はけっして「客観的」に存在する現実のものではなく、あくまでその動物主体によって、「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なものである。

本書の冒頭しばらくは、環世界に暮らす動物と客観的な世界認識を持つ人間、という対比のなかで話が進んでいって、ずっと違和感を覚えていた。それは、程度の差こそあれ、人間だって知覚の枠の中の世界、「環世界」が存在するからだ。

たとえば、ちょうど今がシーズンの入学試験。受験生のころはあれだけ自分の生活の大部分を占めていたはずが、今の私にはまったく知覚されていない。関係者以外の立ち入りを禁止する柵の存在を見て、はじめて入試シーズンであることを認識する始末である。
ほかにも、中学校3年生のときに京都へ修学旅行に行ったときに目に入ったものと、大学生になって再び訪れたときに見る風景とは、まったく異なった印象を持った覚えがある。おそらく、中学生の時分から大学に入るまでの間に得た情報や、その時々の自分の精神状態に、知覚する・できる内容が影響を受けるからだろう。
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この部分は、意味を持つ存在の変化(p.104)というところにも関係する。
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最終的に筆者は、人間もこうした主体に依存した「世界」を有すると述べる。しかし、そこにあげられている例が突飛というか、「大きい」という印象を持った。彼が、イリュージョンとしてあげた例は、想像上の動物(p.91)、歴史認識の違い(異なる国々の間でのイリュージョンの食い違いが簡単には解消しない状況(p.96))、ラジオやテレビによって報道される内容(p.147)などである。どれも、私たちの認識している世界の一部を構成していることには間違いがないのだけど、モンシロチョウが相手をどう認識するか、とか、酪酸のにおいと皮膚の温度を知覚することでダニは吸血行動にいたっているとか、はっきりとした話をしていたのと比較すると、なんだかディスカッションの質、もっといえば、学問的な厳密性はあまりにも変わってしまった気がする。世界の見方としてはなるほどとは思うものの、なぜこの本でそれを学ぶ必要があるのかはよく分からない。地動説と天動説(p.150)だとか輪廻転生(p.156)までもイリュージョンの中に本当に含めるのですか?日高さん。

筆者がこの本で伝えたいメッセージは、人間の認識にも知覚の枠があって、環世界、イリュージョンが存在するということだと思うけど、私にとっては、動物の世界認識について触れた部分のほうが圧倒的に面白かった。44ページから45ページの人間にとっての部屋、イヌにとっての部屋、ハエにとっての部屋という三枚の絵は端的に本書のいいたいことを伝えているように思った。

話は変わるが、高校の漢文の授業で読んだ、胡蝶の夢を思い出して、懐かしかった。Cogito ergo sum。

<メモ>
・環世界はけっして「客観的」に存在する現実のものではなく、あくまでその動物主体によって、「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なものである。(p.16)
・岸田氏のいう「現実という幻想」(p.16)
いわゆる環境というものは、主体の動物が違えばみな違った世界になるのだというのである。(p.40)
・マウスとイタチ(p.71)
・耳の聞こえない母ドリ/子トリの鳴き声をスピーカーで鳴らしつつイタチを巣に進入させる(p.77, 78)
・ガのフェロモンの炭素数が10~20であったことの説明(p.115)


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