博士課程のゴールは博論の提出ではない。


ずっと一緒に研究をしてきた矢澤さんがいよいよ博士号を取り、博士課程を修了します。1年の延長をしたので修士・博士の6年間、同じ調査地で研究していたこともあり、ずっと研究の進捗を見てきました。改めて「博士号をとること」についてメモをしておきたいと思います。

1.博論提出より大切なこと

 まず「博士号」に見合う教育がいかに大変か実感しました。研究手技(実験・調査・統計解析)、先行研究の把握、論文執筆(論理展開・英語)、プレゼンテーション、研究費の申請方法・・・身に着けてもらわないといけないことは挙げればきりがありません。教員にとって博士課程のゴールは博士論文を出させることではありません。きちんと学生を鍛えて(=いろいろなアウトプットの練習をさせて)、一人で研究者として歩んでいくだけの実力をつけ、学問への情熱を灯してもらうことです。博士課程は最後の学習機会という言葉がありますが、まさにその通りです。

2.「ホンモノ」は意外と少ない

 同時に思うのは、そうした教育がどれだけの研究室できちんと行われているのだろうかということです。少なくとも私が在籍していた研究室では全くできていませんでした。きちんと鍛えようと学生に臨んでいる研究室は、博士課程の大学院生が在籍する研究室のうち1%もないかもしれません(もちろん分野の違いはあるかもしれませんが、どこも大して変わらないのではないでしょうか?)。
 先述の博士課程は最後の学習機会という言葉は、博士を取った後は「誰も何も教えてくれない」という意味です。博士号を取るまでに身に着けた武器でそこから戦っていかないといけないという意味です。後ろを振り向いても誰も見守っていてくれないのです。研究者というかなり孤独な生き方をよく表した言葉だと思います。残念ながら、学習機会を活用しきれずに研究者になってしまった人をたくさん見かけます。

3.文科省は大学院教育の評価をきちんとすべき

 中には博士号を取った後には研究に関わらないという人もいるかもしれません。足裏の米粒に例えられるような博士号(※)でよいのなら、それでもかまわないでしょう。ただ、日本中の博士がそんなんだとしたら、いつの日か誰も博士を育てられなくなってしまうでしょうし、足裏の米粒を取りに来た人で研究室があふれてしまったら、博士をきちんと育てられる人でさえも十分に能力を発揮できなくなってしまうでしょう。足裏の米粒だとしてもそれなりに時間はかかるものですから。
 90年代初頭からの大学院重点化施策で博士号取得者は増加しました(https://goo.gl/sSxF7L)。では博士論文の質はどうなったのか? 将来、博士課程の大学院生を指導できるような博士はきちんと増えているのか? そういうところをきちんと評価するべきなのです。留学生30万人計画も法科大学院もそうなのですが、なんで文科省はKPIに振り回されるのでしょうか? 量を増やすのが意味をもつのは、質が担保されているという前提に立った場合です。近年、若手研究者の待遇の悪さがニュースになりますが、足腰が鍛えられていないペーパー博士が多いことのほうが根深い問題である気がします。

(※)医者にとっての博士号は足の裏についた米粒。とっても食べれないけど、とらないと気持ち悪い。


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