ヒトは環境を壊す動物である 書評


ヒトは環境を壊す動物である書評
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環境問題に関する書籍は数多く存在するが、本書はすこし違った角度から環境問題を論じるものだ。筆者は、「環境問題の解決のためには人間の本性を知ることが大事だ(p.7)」と述べ、環境問題そのものではなく、環境を改変する人間の特性にスポットを当てている。この視点は、とても新鮮であり、面白く感じられた。

環境とは何か?
「環境問題」を冷静に捉えることは、解決の道筋を立てるために必要不可欠なことであろう。筆者は、「地球にやさしい」とか「地球を守れ」などといったスローガンに対して否定的な立場をとる。それは、こういったスローガンに「地球環境問題といったときの「環境」とは何であり、「問題」とは誰にとっての問題かという意識」が欠けているためだという。筆者は、これらは欺瞞的で、本質から外れているという。

私も、欺瞞的とまで言うかどうかは別にして、こうしたスローガンには否定的な立場をとりたい。実は、この節を読んで、以前の読書会で扱った『環境の価値と評価手法―CVMによる経済評価』にあった、倫理的満足(=環境を守るためにお金を寄付する行為そのものに対する満足感)という考え方を思い出した。「地球にやさしい」とか「地球を守れ」というスローガンは倫理的満足感のひとつの表れであろう。こういうメッセージは、ことの本質を見誤らせる。

環境倫理学では、人間中心主義を環境破壊の根底に存在するとして批判する。そして、それに対抗する概念である自然中心主義を主張する。自然にはそれ自体に内在的な価値があり、保護されるべきだ、と訴えるのだ。

これに対し、筆者は「ある程度人間を中心に考えざるを得ない」と述べる。地球上に人類が存在しなくなれば、環境問題を問題にするものがいなくなるわけで、ある意味で環境問題は「解決」する。しかし、それは誰も望んでいない。人間がそこに存在することは大前提なのだ。それであれば、人間が存続するための自然を保護する、としてしまったほうが、より本質的だという。地球防衛軍は、別に地球を守るわけではなくて、人類を守るだけなのだ。人類滅亡≠地球滅亡。

人間の認知特性
どうして人々が自然中心主義に陥りやすいのか、ということに関して、筆者は、空間や時間のスケールを捉える能力の欠如が問題であるという。長い間、人間が適応してきた空間スケール・時間スケールに比べて、今、考えないといけない環境問題のスケールが大きすぎるというのである。

従来、150人程度の集団を形成し暮らしてきた私たちが、その進化の過程で身につけたのは、150人程度の集団で起こりうる問題を解決する能力だ。映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』で、「連日のように街頭での犯罪が報道されているのに、なぜスモッグについては話題にならないのだ(p.112)」と、街で警備する警察官にマイケルムーアが言うシーンを挙げ、ヒトの認知の限界について筆者は指摘する。(街頭の犯罪のほうが被害がリアリティを持って受け取られやすい。仮に公害による健康障害のほうがインパクトが大きかったとしても、だ。)

確かに環境問題をリアリティをもってとらえることは難しい。温暖化で3度上がると言われても、よくわからない。工場の排ガスが酸性雨を引き起こすと言っても実感がわかない。こうしたリアリティの欠如は、環境問題の解決をいっそう難しくしていると言えるだろう。(国際協力の文脈でも同じことが言える。途上国に暮らす人が、実際にどのような苦しみを味わっているか、リアリティは持ちにくい。ましてや解決しようと言うインセンティブは持ちにくい。)

1972年にローマ・クラブが人類の危機レポートとして出した、「成長の限界 The Limits to Growth」のなかで、「人間の視野」について述べた箇所がある。人々の関心を時間軸と空間軸で図表化したもので、「来週」、「数年先」、「生涯」、「子どもの生涯」〔時間軸〕と緊急度が低くなるほど、また「家族」、「近隣、職場、町」、「民族、国家」、「世界」〔空間軸〕と当事者からの距離が遠くなるほど、人間の関心が薄くなるという内容だった。つまり、「私」の「今」の問題が最優先にされる一方で、「どっかの誰かさん」の「遠い将来」のことはないがしろにされる、と言うのである。

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 これは、ある意味当たり前のことである。「どっかの誰かさん」の「遠い将来」よりも、歯が痛ければそちらを優先するだろうし、自分の子どものことのほうが「大切」だ。194ページで指摘した、共感の限界も、リアリティの欠如に関係するだろう。

でも、ま、そうはいっても、あきらめるわけにはいかないもので…。想像力の足らない頭であったとしても、必死になって使って、リアリティを持ち続け、解決しようと努力し続けるしかないんだけど。

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 人類生態学が扱うのは、まさにその「どっかの誰かさん」の「遠い将来」のこと、といえよう。主に途上国の長期的な健康影響とか環境への適応を調べているわけだから。フィールドワークの過程で、また日本での思索の過程で、リアリティをもって問題を描き出し、問題解決の一助になることができれば、どんなにいいことだろうか。

メモ
・人間と動物を区別する=道具を製作するために、道具を使う(p.64)
・群れはなぜできるのか(p.92)
・自然的誤謬
・リスク認知に限らず、他の環境問題に関連する認知能力にも、性差があることを考慮して研究を行わなければならない。
・ヒューリスティックス
利用可能性ヒューリスティックス(p.128)
シミュレーションヒューリスティックス(p.128)
・フレーミング効果(p.136)
・社会的ジレンマ(p.152)
(1)集団の成員である各個人が、協力行動か非協力行動のどちらかを取る。
(2)各個人にとっては、協力行動よりも非協力行動を取る方が、望ましい結果を得られる。
(3)しかし、全員が自分にとって個人的に有利な非協力行動を取ると、全員が協力行動をとった場合よりも、誰にとっても望ましくない結果が生まれてしまう。
・社会的アイデンティティ
・コントロール幻想
・タカ・ハトゲーム(p.183)
・ちなみに、本題からそれる箇所が散見される。特に2章、3章。ともに、説明自体はわかりやすく、勉強にはなるのだが・・・。欲張りすぎたか。


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