「一体感」の範囲とフラット化する世界


 チリの友達はなんでもオーストラリアにいたらしく無事だった。彼女の家族や友人も大丈夫だったとのことで、ほっと一安心。もちろん、被災者の中に知っている人がいなければ良いのか、といえばもちろんそうではないのですが。

 しかし、かといって世界の隅々の人々の毎日の生活にまで「全力で心配」をしていたら、そもそも自分の生活が成り立たないわけだから、みなどこかで(無意識のうちに)折り合いをつけて、自分の感情をコントロールするのでしょう。この問題は自分の問題、この問題は自分の問題ではない、と。どこかにウチとソトの境界が存在するわけです。

 でも、そうだとしても、たぶん大切なのは、世界の隅々の人々の毎日にまで「全力で心配しよう」とすること。まちがっても、これは関係ないやといって関係をぶった切ることではないのでしょう。

◇  ◇  ◇

▼以下は完全にメモ形式。ずっともやもやしているのだけど、残念なことにどのように言語化していいのか分からない。

・ウチとソト。すごく大雑把な議論だけども、ムカシ(村落社会・コミュニティという言葉から惹起されるような生活空間)とイマ(都市居住者、階層化した社会)で分類されるものが変わってきているように感じる。

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・ウチからソトになったもの、ソトからウチになったものの理由はなにか。
・ウチからソト
 (1)人々の関心・行動範囲がphysical addressからsocial address(造語)に
    規定されるようになった。
 (2)地域コミュニティなんていう言葉が死語になりかねないくらい、社会は
    階層化しているし、断絶している。
・ソトからウチ
 (1)インターネット、マスメディアによって「強制的」に共有される。
 (2)えてしてセンセーショナル(でなければメディアにのらない)。
 (3)その情報に出会わなければ、人生の中できわめて低い確率でしか遭遇しないイベント。

・インターネットはフラット化に役立ったという側面ももちろんあるだろうけど、
 同じような人を結びつけて、社会の一貫性を失わせたという意味では、実はフ
 ラット化のマイナス要因でもある?


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