その先にあるもの


カメルーンに行った際にお世話になったアイセックの担当者の方、そして、その愉快な仲間たちと、今晩、ご飯を食べに行った。

愉快な仲間たちを含めた彼らは、アイセックのアフリカ研修を充実させるために、研修経験者に話を聞いている最中らしい。まぁ、いかんせんあんまり仕事がなかった私なので、何を聞かれても大したことわかんないから、適当に好き勝手なことを話させてもらった。貧困とか、アフリカとか、諸悪の根源:ジャンルイスとか、毛髪のこととか・・・。役に立ったら、良かったです。

で、そんなのはどうでもいいのだけど、今日、せまっくるしい「すずめのお宿」で話していて
改めて感じたことがいくつかあった。

で、一番強く感じたのは、一番感じてはいけないことかもしれないこと。

貧困撲滅って本当に出来るの?

そもそも、何をもって貧困撲滅という状況とするのか、さっぱり分からないが、仮に、その世界では、みなが「文化的で、健康的な、最低限度の生活」を営んでいるとすると、「貧困撲滅を成し遂げた」世界に住むということを私たちはどのくらいで理解出来ているのだろうか?私たち、というのは、先進国で貧困撲滅を訴えている人間全てだ。

「貧困撲滅」を成し遂げるには、今、この「世の中」がこの生活を享受するために、様々な犠牲を払っているように、大きな犠牲を払わなければいけないはずだ。

おいしいご飯だって食べられなくなるかもしれないし、エネルギー効率の悪い、食肉が配給制になることすらあるかもしれない。日本企業の海外進出は相当制限され、日本の失業率はますます増加して、教育を満足に受けることが出来ない子どもが続出するかもしれない。電気だって、夜12時以降は使えないとか、冷房を使ったら、秘密警察に捕まるとか、
あるかもしれない。明らかに大袈裟だけど。

こういった生活を「私たち」は覚悟しているのか?少なくとも、今の「私」にはそこまでの覚悟はないような気がやっぱりする。しかも、「一生懸命」になっている人がそうなら、そうじゃない人の賛成なんて得られるわけない。しかも、そうじゃない人が多数派。

別に、そうじゃないことが、悪い、とは言わない。むしろ自分に正直なのかもしれない。命削って築き上げてきたものが、「ドッカノダレカ」においしいとこ取りされるのはやだろうし、世界中が同じスタートラインから始めたって、結局、今の世界にたどりつくかもしれない。それは、フェアなのかな?

国際政治に限らず、「平等」という概念は難しい。そこに違いがあるからね。

それに、結局、人は勝手な生き物。

もし、今、貧困のなかに暮らす人と「私たち」の立場が入れ替わったとしたら、きっと彼らも、同じような生活を繰り返すのだと思う。

はっきり言って、なんだか切ないけど、それに向かい合わないといけないのかもしれない。ありえないけど、淡い未来に期待しちゃうのかもしれない。逃げたいけど、それに向かい合ってしまう自分がいるのかもしれない。

うひょひょひょひょ。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください