ゴサインタン 神の座 書評


居場所を見つけること

ゴサインタン―神の座 (文春文庫)を読んで
———-

 とても読みやすい。描写がきれいでいて、なおかつ丁寧である。綿密な取材に基づいて執筆していることもうかがい知れる。本書は650ページほどの長編ではあるが、それだけの負担を感じなかった。中学生以来、小説にはなぜかアレルギーがあって、長いこと実用書しか手に取ってこなかった私だが、なんだか今まで勿体無いことをしたような気すらする。

                     ◇   ◇   ◇

 主人公、結木輝和は武蔵野の由緒正しい農家の出であった。見合いに失敗すること40数度、最後にすがったのが、国際結婚を扱うブローカーだった。その紹介で、20も年の離れたネパール出身の女を娶り、彼女を「淑子」と呼ぶことにした。

 結木の家に入った「淑子」だが、日本語は一向に上達せず、嫁としての責務もなかなか果たさない。それどころか奇妙な行動を起こし、輝和を混乱させていく。

 神がかった能力を見せ、数々の奇跡を起こした。「淑子」のもとには、次第にたくさんの「信徒」が押しかけ、彼女を教祖としてあがめるようになった。子供の病気で悩むもの、カネがなくて困るもの・・・数多くの悩める人たちが、「淑子様」に救いを求めた。

 淑子は結木家の財産をこれらのひとに分け与えた。

「長きに渡って人々を苦しめ、百姓たちの血を吸って築き上げてきた結木の家の名誉と富を捨てなさい。蔵のお宝の一つ一つに人々の恨む、苦しみ、悲しみがしみこんでいます。一つ残らず吐き出し、道端にお捨てなさい(p.226)」

輝和は資産を全て失った。勝手に貧者に施しを与える彼女に対し激しい怒りを感じる輝和だったが、何度も家を飛び出しても、淑子に依存している自分の存在にも気づき、彼女のもとに戻ってしまう。

 しばらくして淑子は突然姿を消した。妻を探して辿り着いた聖地ゴサインタンで、輝和は、「淑子」ではなく「カルバナ」にはじめて向き合う。

◇   ◇   ◇

 この本を読んでいて、「居場所」がテーマなのかな、とぼんやりと思った。

 何が正しいか分からない時代である。人それぞれ、こころの闇を抱えている。何かにすがりたい。どこかに心のよりどころがほしい。それが人によっては、金銭であったり、家柄であったり、宗教であったりする。しかし筆者は、欺瞞を孕む宗教を描写し、金銭や家族のメンツではないと本書を通して訴えかけているように思う。

 居場所を見つけるには、他人を理解すること。他人に理解してもらうこと。そしてほかならぬ自分を理解すること。これらをして、人はようやく相手と分かり合い、居場所をみつけ、「生きる意味」を見出すのではないだろうか。

 まぁ、大体、この男はひどすぎる。昔、気になっていた女の名前で嫁を呼び、その女と関係を結ぶなんて、どういう神経をしているのだろう。そういえば、駒場のスペイン語の先生が、ホセとかペドロとか勝手にスペイン語圏の名前を学生につけ呼ぶと聞いてアホかいなと思った覚えがある。

=========================================================
▼国際協力・国際保健のサブテキストとして読むとしたら
=========================================================

 高校生のときも大学生のときも、そして今もなお、異文化で暮らすにあたり気をつけていることが3つある。

Ⅰ.彼らの暮らしを尊重し、共に暮らそうという努力を常にする。
Ⅱ.彼らと同じになれたなどと夢にも思わない。(特に、国際協力の文脈で)
Ⅲ.その場にいることを楽しむ。ニコニコしている。

Ⅰ.彼らの暮らしを尊重し、共に暮らそうという努力を常にする。

昨日、シズエに、「村のものなんか食べちゃだめよ。不潔なんだから、私たちが食べたらあっという間に病気になるわ」といわれたのを思い出した。しかし今、それがシズエのある種の特権意識からでた言葉であるように感じられ、反発を覚えながら、輝和は料理を口に運んだ。p.565

 そのあと主人公は嘔吐と下痢に悩まされる。私はこういうシチュエーションであえて食べる。別に嘔吐と下痢に悩まされればいいとも思う。自分の基準を他の人たちの生活に持ち込むことは、本当に重要なことではない。
 たしかにはじめは大変である。でも、その場に暮らす人たちの生活に慣れてしまった方が暮らしやすいし、相手と楽しい時間を過ごすことが出来る。
 というか、普通、薦められたものを断るのって難しい。
 それに、不満を並べたところで、何か解決するものでもないのだ。もちろん短期の観光客は別かもしれない。でも、暮らしをともにするフィールドワーカーは少なくとも、全てを受け入れなければならない。

外国人にとってのネパールは、山であり、秘境であり神秘の国だ。そこでわれわれが何を考え、どんな暮らしをしているのかには、興味がない。p.572

 暮らしを尊重する上で、勝手なイメージに基づきコミュニケーションをとることは危険である。ゲイシャ・フジヤマで日本を語れないのと同様、ネパールが神秘の国であるのは虚構であるかもしれないし、仮にそうであったとしても一面にしか過ぎない。日本で暮らしている以上に、五感を研ぎ澄ませ、その場の空気を読む力が必要になってくるだろう。

[過去のブログ記事より]
ふりかけ宣言(特に後半部)
虫の味

当たり前

Ⅱ.彼らと同じになれたなどと夢にも思わない。(特に、国際協力の文脈で)
 Ⅰと相反するようではあるが、「彼らと同じになれた」などと夢にも思わないことも重要だと思う。なんやかんやで日本人である自分、という存在を消し去ることは出来ない。日本に常に片足は入っているという意識でいないといけないだろう。

[過去のブログ記事より]
そして、これから
Stop Trying to ‘Save’ Africa

Ⅲ.その場にいることを楽しむ。ニコニコする。
 一番最後に記載したが、一番大切だと思うこと。ニコニコと笑顔を絶やさないことが何にも先んじて重要である。ニコニコしていればいろいろな人が寄ってくる。でもまぁ、本当に楽しいんだもの。なんかよく分からないけど。輝和も最後には気がついたかな。

☆結論
 Ⅰ.Ⅱのふたつを戦わせ、その場その場で部分最適を図っていく、そして、その場を楽しむ。これに尽きると思う。ベストソリューションを求めようったって、そんなものはないのだ。ベストソリューションを求めて、その場でうじうじしていても何のバリューを発揮したことにならない。その場の空気にしっかり触れ、そこで考え、行動につなげていくことが何よりも重要なのだろう。

☆補足
 援助をするべきかしないべきかという話をする際に、いくつかの反応がある。

(1)僕がここで薬をあげて助けても一人しか助けられないから、あげない。
 無意識的に、自分が神様のように彼らの命をコントロールしている立場に立とうとしている。そういった点で、違和感を覚える。「彼ら」と対等な立場に立っていない。目の前に苦しむ人を助けるというのは、それはそれで大切なことだ。

(2)ほら、彼らには彼らの文化があるから。
 「文化相対的主義」的な姿勢は欠かすことが出来ないが、何でもかんでも相対主義に還元し、だんまりを決め込むのはどうなのだろうか。

「水道を引けば、遠くまで水汲みに行かないですむ。家畜の糞の入った水を飲まないですむから、病気も起きない」
たどたどしい英語で説明しながら、輝和は果たして自分のやっていることが正しいのだろうか、と自問自答していた。女性の仕事としての水汲みはこの国の習慣であり、家畜の糞に対し、不潔感を抱くようにと、異なる文化を持つ人間が強制することは出来ない。たとえばそれが原因で病気が発生したとしても、それは冬に木枯らしが吹き、雨期に雨が降るのと同じように、ここでは自然なこととして受け止められているのかもしれない。p.596

▼番外編 ヒルの怖さ

ぬるりとした粘液質のものが手に触れた。(以下略)(p.560~)

 ヒルの恐ろしさは、襲われたものでしか分からないだろう。本当に怖い。今でも思い出しただけで身震いがする。ヒルファイターを持っていかずに山に入ったときの後悔って言ったらなんのって。描写があまりにもリアルだったので、筆者も吸われたのかもしれない、と思った。

▼ヤマビルファイター:http://www.ikari.jp/lcshop/0503.html
▼ヤマビル研究会:http://www.tele.co.jp/ui/leech/index.htm
▼ヤマビルとは?:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E4%A5%DE%A5%D3%A5%EB

 足音(振動)、呼気、炭酸ガス、体温、体臭で感知すると言われている。前吸盤に3つの口を持ちそれぞれに約80の歯があり吸血。血液凝固を防ぐヒルジンを分泌するので、血が止まりにくい。ちなみに、一度吸血すると一年以上生存可能で、吸血後、約2週間ほどすると卵を産む。海南島の私が言った村では枝の先に付けた袋に塩をいれ、水で袋全体をぬらし、それで叩いた。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください