死の概念


本郷三丁目のスターバックスを出ると、目の前で鳩が死んでいた。特に外傷があるわけでもなく、ポテンと「普通」に。

鳩に限らず、鳥が死んでいるところを見ることはなかなかない。私の人生の中でも、鳥の死体を目にしたのは、本当に数えるばかりである。犬・ネコなどの愛玩動物は飼い主がいるので、飼い主に葬ってもらえていて、私たちがその死体を目にすることがないのは当たり前だとしても、ハトを飼っている人は、ほぼ皆無だろうから、もっとたくさん死骸を目の当たりにしてもいいような気がする。特に、あれだけごみ置き場をたむろしているカラスを飼っている、なんていう話はいまだかつて聞いたことがないから、あのカラスたちの老後の行方は非常に不思議だし、もう少し道端に転がっていてもいい気がする。しかし、それを私たちが目にすることはほとんどない。

・・・という話を以前友人にしたら、動物には死の概念がなく、苦しければ自分が攻撃を受けていると認識し、身を隠すのだ、と話していた。それを思い出し、今さっきGoogleで検索したら、やはり同様の内容が出てきた。記事に因ると、ネコの場合、
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自分自身の死という概念を持っていないので苦しければ自分が攻撃を受けていると思ってしまう。その攻撃相手から身を隠そうとするのが当然の反応。身を隠してひとりになり脅威のもとが通り過ぎて苦しみが和らぐのを待つとあり、体調が優れないと本能的な防御反応として安全な場所に身を隠す。
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つまり、動物が身を隠すまもなく動けなくなる場合しか、私たちは、その死体を目にしないということなのだろう。そうなると、さしずめ心筋梗塞か、脳血管障害か。ちなみに、以上の内容は、Catwatchingという書籍に書いてあるらしい。しかも、トリビアの泉にも紹介されているとのこと。

この書籍ではネコの場合のみ言及しているのだが、鳥の場合も同様のことが言えるのかもしれない。立つ鳥あとを濁さず、とはこのことか・・・。


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