麻疹が流行する国で新型インフルエンザは防げるのか 書評


「お医者様」と「患者さま」

 2002年川崎協同病院での安楽死事件を受けて、朝日新聞コラム「素粒子」にこうあった。

人が直視できないものとして、太陽と死があげられる。普通人には生と死の境もまた直視しにくい。そこでも冷静な判断ができるということで、医師への信頼は成り立っている。

本書を読んで、医者と患者の関係が確実に変わってきていると感じながら、このコラムのことを思い出した。

 今よりほんの少し昔まで、きっと「お医者さま」は絶対だった。でも、遮光板を使えば太陽を見ることができるように、現在の私たちは、ネット上の情報をえて前よりずっと冷静に死や病気といったものを受け止めることができるようになった。「お医者さま」と「患者」の時代にあった圧倒的な情報の非対称性はなくなり、そこら辺の医療従事者の「呪術」は効かなくなってきた。今、「お医者さま」であり続けることは本当に難しい。
 なんといっても、今は「患者さま」の時代だ。ほかの製品と同じように不良品のない100%の医療サービスを当たり前にする。100%がありえない医療にもかかわらず、なにか少しでも問題があれば裁判所やメディアに訴える。

 すごい高いレベルの「お医者さま」を求める「患者さま」が溢れる現在、行政を含めて医療関係者はさぞ大変だと思う。彼らは万能でなくてはならず、しかも、患者さまの「わがまま」を聞く度量の広さも持たなくてはならない。でも、そんなことは、はっきり言って無理だ。医師も人の子、限界がある。医療サービスの質を上げるために一定の圧力が医療関係者にかかることは重要なことだと思うけれども、あまりの無理難題を押し付けて、彼らがそれを回避することを至上命題にし、全体の幸福を下げるような行動(たとえば本書に紹介されている例だとワクチン接種の定期接種をやめてしまうこと)に向かってしまうことだけは避けなくてはならない。

 きっと「患者さま」は、(1)その時点の「科学的事実」に基づいた結論を自分で下すべきで、(2)起こってしまったリスクについて人のせいにするべきではない。もちろん「科学的な事実」はえてして非常にファジーで、簡単に線引きができないから、諸々の問題が発生するのだろう。それでも目指すべき方向としては、情報公開をきちんとして、患者が主体的な意思決定をできる環境を整えることが望ましいように思われた。いつものことだけど、「保健学科」、がんばれ。俺、がんばれ。

 ある意味、当たり前のことだが、普通の医者は「お医者さま」になる努力を、「患者さま」になってしまっている人々は主体的な意思決定者になるよう医療リタラシーを高める努力を、それぞれがするのが解決方法なのだろう。


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