環境人類学を学ぶ人のために 書評


環境人類学を学ぶ人のために書評
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 もし環境人類学を初めて学ぶのであれば、まずはこの本に目を通すと良いだろう。それは、この本が扱うトピックの範囲が幅広いからだ。ブタや植物などの自然資源をヒトがどのように利用してきたか明らかにするクラシカルな研究から、地球環境問題の解決のために人類学が提供しうる価値の紹介にいたるまで幅広く、まさに原題のサブタイトル”From Pigs to Policies(ブタから政策まで)”の通りである。また、巻末に収録されている「環境人類学を学ぶ人のための読書案内」(訳者)も環境人類学の成立過程に触れており、その思想の系譜を理解するのに役に立つ。

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 パトリシア・タウンゼントは序文の中で、「数ある学問の中で、人類学は、われわれ人類が作り出してしまった環境の混乱を解決する上で、適度な謙虚さと十分に幅広い視野を有している」(p.20)と述べている。

 もっとも、「われわれ人類が」という表現には、ブーイングがあがるかもしれない。「環境を混乱させた人」と「環境の混乱に巻き込まれた人」の間には明確な差があるからだ。「環境を混乱させた人」のみがおおきな恩恵を受けていることも、そのブーイングを大きくする理由のひとつだろう。
 とはいっても、実際に解決するためには、資金だったり、政治力だったりが必要なわけで、「環境を混乱させた人」たちにやる気を出してもらわないといけない。そして、やる気を出してもらうだけではなくて、きちんと「環境の混乱に巻き込まれた人」の言い分を聞いてもらって、その上で解決に取り組んでもらわないといけない。

 たとえば、ニューギニアのオク・テディ鉱山の周辺では、「孤立していたがゆえに守られてきた」人々の生活が、多国籍企業の進出により壊された。住民が労働者として雇われ、彼ら独自の文化は失われていった。治安が悪くなったり、人の出入りで今までなかった疾病が持ち込まれた。鉱山からの重金属の排出は自然への大きな負荷となった。まさに彼らの「権利が急速に脅かされ」たのである。そして、彼らにはそれに抗う手段はなかった。そして、今も申し立てをするすべはほとんどない。

 そんな時、「先住民の代弁者」(p.87)として、環境人類学者が活躍する可能性があると筆者はいう。フィールドワークによって得た知見、また、ものの考え方というものが、「先住民と開発者側の調停者としての役割」(p.87)を果たすことを可能にするというのだ。先述したとおり、適度な謙虚さと十分に幅広い視野と筆者が言っているのも、(少なくとも実践的な意味で、)人類学者が文化相対主義の立場を取り、さまざまな事例を少し引いた視点から見続けてきているからであろう。

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 他にも、ハザードやリスク、生物多様性や大量消費社会など、幅広く扱っており、今日の「環境とヒト」を考える上での、新しい視座を提供してくれる。

 それにしても、「環境を混乱させた人」は都合がいい。今、こうして環境問題がにわかにホッとになっているのは、環境ビジネスが成立しうるから、とか、企業イメージの向上やつながるからとか、投資対象になりやすくなるから、という理由でないとよいのだが・・・。

▼キーワード
文化生態学、ジュリアンスチュワート、文化の核、多系進化、単系進化、民族生態学、ラパポート、コモンズ


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