ドクタラーゼの座談会と「長谷川豊的なるもの」


ずっと書く気が起きなかったのだが・・・

長谷川アナの「失言」についてはいろいろな人がいろいろなことを書いていたし、書くだけでげんなりしそうなので自分では触れないで来た。ただ、昨日Facebookで回ってきた座談会の記事とそれに対して座談会の参加者の医師がさらにFacebook上でやり取りをしているのを見ていて、なんか全部がつながる気がしたのでちょっと書いてみようと思う。

というか自分のためのメモです。

▼座談会の記事
http://www.med.or.jp/doctor-ase/vol19/19page_ID03main8.html
▼長谷川アナに署名を届けた野上さんの記事
http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/25/nogami-haruka_n_12651678.html
▼長谷川アナの件のブログ記事
http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/?p=12

パターナリズム × 自己責任論

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座談会で話題になっていたのは、患者(国民)の健康行動に対して医師(国家)がとる態度についてである。これは昔からある「パターナリズム」と「リバタリアン」という対比で説明できる。パターナリズム(父権主義(それにしてもよくこんな言葉残ってるな・・・!))というのは、「医療費削減のために健康でいてください」「健康でいるために○○してください、○○しないてください」という態度だったり、「(何も分かっていない)患者のためにお医者様が治療方針を決めてやる!」というような態度のことを言う。その一方、リバタリアンは、「早死にでいいからタバコ吸わせろ」に対して「どうぞどうぞ」という態度のことを指す。

医学・公衆衛生学の歴史は、パターナリズムの傾向を強めてきた歴史と言っていいだろう。50年前の人が今の状況を経験したら、「健康ヒステリー」とでも思うかもしれない。予防接種をちゃんと受けろ、手を洗え、家は衛生に保て、タバコは吸うな、酒は飲むな、歯を磨け、運動はしろ、食塩摂りすぎるな、定期健診うけろ・・・そして挙句には、ストレスはためるな・・・これだけやればそれだけでストレスがたまる気もするが(苦笑)、それでも人々は少しずつ受容し、結果として平均寿命は延びた。パターナリスティックであることが良いとか悪いとかではなくて、人類の歴史はそうであった。座談会の医師たちはお三方とも、歴史を振り返った中で言えば十分にパターナリスティックであると思うが、お三方の中ではお互いにスタンスが違うと感じたらしい。まぁ、それは良い。

「パターナリズム」「リバタリアン」という軸に足したいのが、長谷川アナのような自己責任論に関する軸である。健康を損なう行動を取って不健康になった場合に、どの程度、国が「面倒を見るか」という話である。国民がどんだけ「非国民」であったとしても国民の生命を守るのが国家の責任である(というかそれが国家の成立要件ではないのか?)と思うので、なんだか変な話な気がするのだが、変な話が増えている昨今である。

日本では、少しずつ不健康であることに対する負担を個人が負うようになってきた。1961年に国民皆保険は導入されたものの、医療機関での自己負担割合は、1981年(0 → 10%)、1997年(10 → 20%)、2003年(20 → 30%)と段階的に引き上げられている。何もかもを面倒見てくれる福祉国家・日本ではなくなりつつある。

二軸が重なるところが日本の医療の現状だとすると、パターナリズムな傾向も、自己責任論の傾向もこれからも続いていくだろう。先日、自民党の財政再建特命委員会2020年以降の経済財政構想小委員会(https://www.jimin.jp/news/policy/131960.html)で、「健康であることに適切なインセンティブを用意する」(いわゆる健康ゴールド免許)ということが提言されたが、それは一つの表れだ。提言されただけで今日明日に何かが起こるわけではないとはいえ、そういう施策を取るような判断が下されることは大いに可能性があるだろうし、そういう雰囲気を感じる。

念のため触れておくと、だいぶ荒唐無稽な長谷川アナのブログを一生懸命読むと、実はリバタリアンなのかなと思う。アリとキリギリスの例を出しているが、彼が言いたいことは、「キリギリスは好きにしろ、その代わり落とし前は自分でつけろ」と。でも、繰り返しになるが、どんな状況であっても国民の生命は無条件に守られるべきである。それに、この状況を勝ち得るために、どれだけ多くの人が血を、汗を、涙を流してきたと思っているのだろうか。なぜわざわざ自分たちから放棄しなくてはいけないのだろうか。意味不明。(そもそも長谷川アナは、誰目線なのかよく分からない。権力者? ジャーナリズムって権力に逆らって書くものじゃないの? 壁と卵であれば常に卵の側に立つものじゃないの? 長谷川アナが権力者の側に立たなくても、権力者がやろうとすることは(良いことでも悪いことでも)ほっとけば実行されていくから、悪いことがなされないように監視する役割を果たすべきものじゃないの?)

リバタリアン・パターナリズム

普段はちんちくりんなことばっかりしているが、研究者としての立場をそろそろ明確にしないといけないんだと思う。私は今よりもう少しパターナリスティックな状況を作るために研究をする。個人としては自堕落な生活をするかもしれないが、研究者としてはパターナリスティクな立場で行く。なぜなら医療費が高騰する問題は解決すべきで、そのためにはもう少し介入して、人々がより健康でいてくれた方が良いからだ。

でもこれ以上、健康問題が個人の責任に帰されるのは見ていられない。改めて繰り返しになるが、国民の生命は無条件に守られるべきだし、あらゆる人に対して寛容な社会であってほしい(なんなら、長谷川アナに対しても)。そうじゃないと安心して外を歩けない。他人に向けたナイフが自分に向けられていたとか、そんな社会はごめんだし、渡る世間は鬼ばかりではコミュニケーションにコストがかかってしょうがない。

行動経済学の分野ではリバタリアン・パターナリズムという考え方があり、公衆衛生学でも近年使われている。一つ目の図で示した二軸とは全く新しい軸だ。この軸を一つ目の図に足して考えると頭の中が整理される気がした。

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強制はしないのですが、本人が自ら、本当に望ましい選択をするように誘導するというか、もって行くというか——。そういう仕組みのことを言います。
http://d.hatena.ne.jp/hirokim21/20091008/1254980662
(訳文中の「左翼」というのがなんかシックリ来ないが・・・。左翼はなんでも禁止するのか?)

つまり、環境要因への介入を考えるとか、本人の意思が及ばない部分での介入策を工夫をするというのが、リバタリアン・パターナリズムの考え方だ。「分かっちゃいるけどやめられない」に対応するためには、個人の努力に依存しない対策を考えることが重要だ。さらに、これが良いと思うのは、個人がパターナリスティックな雰囲気をそんなに感じなくて済むようになるだろうことと、健康問題の責任がこれまでほど個人に帰されなくなるだろうことによる。うまくいかなかったら政府なり研究者の打ち手が悪いということになるからだ。努力する方向としては「正しい」し、そんなに「苦しくない」気がする。これ以上、生活指導・健康指導が入ったら、それが原因で病気になる人すら出てくるかもしれない。

もっとも字のごとく、リバタリアン・パターナリズムがパターナリスティックであることは、自覚していないといけない(決してパターナリスティック・リバタリアンではないのだ)。でも、パターナリスティック自体が悪いわけではないし、医学・公衆衛生学がやらないといけないこと、やれることはたくさんあると思う。

最後にひとつ。野上さんは生活習慣病という言い方を変えるべきだと指摘している。

やはり「生活習慣病」などという、誤解を招く差別的名称も改めるべきです。大雑把に一部の疾患をそうやってひとくくりにすることに意味はないと思います。

日本で成人病と言われていたものが生活習慣病と言い換えられたのは1996年。成人だからと言って発症するわけではなく生活習慣の改善によって予防されること、逆に小児でも発症するケースがあることから、言い換えられたという歴史がある。英語ではLifestyle-related diseaseとかLifestyle diseaseという言い方もあるが、Non-communicable diseaseという表現が最近は多いような気がする。
https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/dictionary/metabolic/ym-040.html

どういう表記がふさわしいのかもっと考えるべきだと思うが、疾患名自体が差別や偏見、不正確な理解を助長してきた歴史がこれまでにあることは忘れてはいけない。きちんとした言葉でコミュニケーションすることはとても重要だ。
http://www.aids2014.org/webcontent/file/Language_tips_HIV_cheatsheet.pdf

公衆衛生における倫理に関する先行研究

どういう場合にPublic health interventionが正当化されるかという倫理的な面からの整理。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1446875/
パターナリスティックなスタンスを正当化するためのフレームワークに見える。WHO。国を超えての公衆衛生への取り組みについても言及。
http://www.scielosp.org/scielo.php?pid=S0042-96862008000800003&script=sci_arttext&tlng=es
公衆衛生の分野におけるリバタリアン・パターナリズムについて。
http://phe.oxfordjournals.org/content/3/3/229.abstract


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