人類学と国際保健医療協力  書評


人類学と国際保健医療協力 (みんぱく実践人類学シリーズ 1)書評
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国際保健医療学×人類学=?

0.シンポジウムテーマが語るコト
2006年10月に日本国際保健医療学会総会と日本熱帯医学会大会の合同大会が長崎で実施された。本書は、その合同大会でおこなわれたシンポジウムをベースに執筆されたものである。シンポジウムのテーマは、「文化人類学は医療協力の役に立つのか?」

 まず、このシンポジウムのテーマ設定がなされたという事実自体が語ることがある。
 ひとつは、「従来の医療協力」が、立ち行かなくなったということである。そして、何かすがるものを必要としているいうことだ。つまり、医療スタッフを各地に派遣して、食料や薬、その他もろもろを大量にばら撒けば、何とかなるだろう…という仮説のもとに、トップダウンでデザインされた計画は破綻をきたした、ということだ。いつまでたっても不健康な人はたくさん存在したままだし、マラリアやポリオなど根絶が可能だとしていた大規模感染症は、天然痘をのぞいて根絶できていない。(※1)
 そこで考えられたのがボトムアップの対策である。本書にあるように、ボトムアップ型のアプローチでは、「対象地域の人びとのニーズに十分にそうものとするために、あるいは人びとが主体的に参加できるようにするために、彼ら彼女らの価値観、行動様式、生活にまつわる技術や知識などをしっかりと理解することが指向され」ている。それぞれの村ごとにプロジェクトをカスタマイズしたプロジェクトは実効性が高いのである。
 そしてそのプロセスで、人類学の知見(フィールド調査の方法、相対主義に代表されるような独自の哲学)が活かされるはずだ、という読みがある。
 しかしながら問題が生じた。そこに上記のようなタイトルのシンポジウムが実施されたもう一つの理由がある。具体的に言うと、国際保健医療分野で働く人々と人類学者との間に摩擦が生じたのである。もし文化人類学が医療協力の役に立つことに、誰も意義を唱えないのであれば、わざわざシンポジウムをやる必要はない。

 この本の背景にあるのは、およそ以上のようなことである。

1.この本のあらすじ
 さて、ざっくり本書の内容を分けてしまえば、ふたつに分類することができるだろう。
 ひとつは、開発援助や国際協力の現場を開発人類学や医療人類学の立場から見たフィールドレポートとしての面。もうひとつが、開発援助や国際協力、特に保健医療の分野で、人類学がどのような役割を果たすことができるかという議論の紹介という面である。
 まず、フィールドレポート集として、本書は興味深い。ケニア、ミャンマー、ウガンダ、モロッコなどの、さまざまな地域の「医」、「生」、「病」を描いてある。そして、それぞれの文化体系に対応していない「西洋医学」的な国際協力・介入が、現地でうまくいかないことが示されている。とはいえ、類書が存在しないわけではないので、この本でないといけない理由は特にない。
 しかしながら、ふたつ目の国際保健医療分野で人類学が果たしうる役割、いやむしろ、国際保健医療分野における人類学者たちの悩みや葛藤に関して記述された点については、類書が存在しないという点を考えてみると、本書が持つ意義は大きいだろう。個人的な話になるが、私は将来、国際保健分野で人類学/人類生態学的にアプローチすることを生業にしたいので、本書の刊行はうれしい。

以下、本書への意見の見解を述べながら、国際保健医療と人類学の「折り合いの付け方」に関して、両者の調停者になったつもりで、私なりの見解を述べたい。

2.文化人類学の立場
 第三章の白川氏は、開発援助や国際協力に対する文化人類学の立場を、①積極的立場(アクティビスト、開発人類学)、②中立的立場(モニタリスト、開発の人類学)、③批判的・否定的立場(リジェクショニスト)の三つに分類しているのだが、きれいな分類とは思えない。

 たとえば、積極的でも批判的になることはできる。むしろ、積極的ということばから批判的意見というものを除いたら、ただひたすら盲目的に国際協力に臨んでいく、というニュアンスが強くなる。これは、決して褒められた姿勢ではない。それに、批判するのであっても、その批判がよりよい開発援助や国際協力のあり方を模索するためのものであったら、建設的であると評価されうるべきものであるし、何よりも積極的な姿勢といえよう。
 それに、中立的な立場というのもよく分からない。部分的に開発援助を認めるという意味なのか、第三者として観察する、という意味なのか、そもそも関心を持たないヒトもここに含まれるのか。
 他にも、人類学者にとって積極的であっても、医療従事者にとっては積極的に見えない、ということも往々にして起こりうることで、その判定もまた難しい。

 私が考えるに、分類として重要なのは、まずは「開発援助や国際協力の存在」を肯定的に捉えるか、そうでないか二択である。もちろん、現時点での開発援助や国際協力のあり方への評価は別である。(なお、私自身の見解は、おそらくお気づきかもしれないが、「開発援助や国際協力の存在」を認めるというものであることをここに記しておこう。)

 まず、「開発援助や国際協力の存在」を認めない人を説得したい。
 文化の多様性が失われることを防がなくてはいけない、という主張が分からないわけではない。ただ、これだけグローバル化が進展していて、トヨタの車が(おそらく)ケニアの奥地でも走っていて、コカコーラが世界中で飲まれているのが現代の世界である。途上国の人々は先進国の暮らしを知っている。彼らの中にも、経済発展を願い、開発援助を求める声がある。それにもかかわらず、多様性を保持しなくてはいけないので、彼らは開発援助を受けるべきではなく、そのままの生活を送ってもらおう、というのは少し身勝手に聞こえるし、極めて「オリエンタリズム」的なアイディアであり、文化人類学者がそういうことを言っていてはいけないだろう。
 あと、すごく現実的な話をすれば、日本の外交戦略上、一切の国際協力をしないという選択肢はありえない。日本の安全保障理事国入りを達成するためにも、途上国への援助は欠かせない。

 これで、「開発援助や国際協力の存在」を認めない人を説得したとしよう。そうなると、現時点での開発援助や国際協力のあり方をどう評価するか、ということが問題になってくる。もっと言ってしまえば、理想の国際保健とは一体なんであるのか、という話になるだろう。理想は誰にとっての理想であるべきなのだろうか。

3.国際保健医療協力に関わる人
 本書12ページに書かれてあるとおり、「自然科学の立場をとる医療従事者と、社会・文化的脈絡の中で病気を把握し、理解しようとする文化人類学者の間には多くの見解の相違があ」る。両者の立場は全くもって正反対で、ここで、価値観の衝突が起こる。医療従事者の姿勢は帝国主義的でパターナリスティックだ、と人類学者の目には映るだろうし、一方の医療従事者にとっての人類学者は、傍観者的立場をとり、人の揚げ足ばかり取るヒネクレモノ的な存在と理解されているかもしれない。(※2)

 しかし、共通していることがひとつあって、それは、住民の「幸せ」が達成されるべきだ、という価値観である。(※3)「幸せ」などというものは非常に抽象的なものではあるものの、共通のゴールが存在するという意味では、お互いの歩み寄りがまったく不可能なわけではないだろう。なんといっても最終的には、そこに暮らす住民に決めてもらえばいい。医療従事者も人類学者もそこに暮らす住民に対してプレゼンテーションをして、最終的には、彼らが選べばいい。それを忘れなければ、きっと新しいフェーズにいけるはずだ。

3-1.人類学者へのイメージに関して
 医療従事者とは思考方法が著しく異なるから、人類学者は面倒くさいって思われてるのだろうとはずっと思っていた。本書でも少なからずそういう部分を描写した表現があって、たとえば「参加したプロジェクトの批判ばかりする文化人類学専門のコンサルタント(p.21)」への医療従事者の反応や、「医療協力を行う側にとって、文化人類学の視点は時にプロジェクトの数値目標達成の障害になることもあろう(p.119)」という記述はそういったことを感じさせた。
 何よりもショックだったのは、

開発援助プロジェクト関係者が持つ人類学(人類学者)に対するイメージの問題がある。筆者が先述のプロジェクトに合流した最初のミーティングの際、「はっきり言ってあなたには何も期待しておりません。どうせご自分の調査できたのでしょうから、ゆっくりみてまわってください」とプロジェクトのスタッフである医療従事者の一人から言われ、愕然としたことはいまだに鮮明な記憶として残っている。(p.169)

という表現である。私自身、将来的には開発プロジェクトに関わりたいと思っているので、そういう目で見られうることを頭に入れておかないといけない、と強く感じた。

3-2.医療従事者へのイメージに対して:国際保健の特殊性
 さまざまな開発分野が存在するが、それぞれと人類学との関係を考えたとき、国際保健学が扱っているのは「人のいのち」であり、少し特殊である。
 文化相対主義を標榜する人類学者が、文化の多様性を減らすことに反対する。たとえば、地域生態系を壊すダムの建設に反対し、民間療法を崩壊させる西洋医学を拡大することに反対するとしよう。両者を比較すると、人類学者がうけるリアクションは(きっと)とても違う。しかも、「あなたは赤ちゃんが死んでもいいんですか?」などと言われてしまうと、何もいえなくなってしまう。国際協力の中で保健医療はある意味、「聖域」になっている。「帝国主義」であることが、「ヒューマニズム」で隠されている、という言い方もできないわけではない。
 もちろん、人のいのちを救うというのは極めて重要で、人を人、足らしめる行為だと思う。人を救えるとしたら人を救わないといけないのかもしれない。しかし、長期的にみたときに、それが人間集団の生存にとって適応的な行為であるかどうかはよく分からない。そのことは医療従事者がかかえておくべきジレンマかもしれない。

4.人類学への不満は人類学者のせいなのか?
 本書で記述された人類学者への不満は、途中からプロジェクトに参画してケースが中心になっている。まぁ、途中から入ってきて文句ばっかり言ってたら、人類学者であろうがなかろうが頭にくるだろう。文句ばっかり言ってる人間は要らない。実際の問題解決の役に立たないばかりか、チームの士気を下げるだけである。そういうところを考えてみると、人類学者がうまくやっていくためには、はじめからチームにはいること、建設的な意見を述べること、その辺に気を回せば大丈夫なのではなのかもしれない。もちろん希望的観測だが。(※4)
 同時に一つ思うのは、解決策を見つけることまで人類学者に求めるのはもしかすると酷なことかもしれない、ということだ。人類学者は、問題解決のトレーニングを受けていない。対象を観察し、それを分析するのが仕事である。きちんとJob Descriptionを作成しなかった採用責任者に問題がある気もする。
 人類学者はおそらくコミュニティで問題発見することには長けているはずだから、プロジェクトの早い段階に派遣すればいい仕事をするはずだ。問題解決は人類学者でなくてもよいはずだ。

5.結論
 グローバル化の中で激変する社会において、わたしたちが必要とするのは、何かしらの緩衝材である。本書173ページにある

波平と武井が、以前、国際医療協力と文化人類学に関する対談の中で、人類学にできることは現地で起こり得る急激な時間の変化を現地の時間に少しでも合わせる、緩めることではないかと語っていた

というのは、本当にそのとおりだと私は感じている。いかに変化に対応し、うまく新しい環境、社会に適応することができるか、ソフトランディングすることができるか、それが重要なのであろう。
 いずれにしても「自分の調査に来た」「プロジェクト自体に批判的である」「問題に関して全く傍観者的立場をとる」という人類学者へのイメージは早いところ払拭したいところである。また、人類学的な視点を持って、問題特定を行い、解決に臨む姿勢は、人類学者のみならず医療従事者にも大切な姿勢であることは間違いなかろう。

6.注釈
(※1)トップダウンのみで解決を見なかったのは保健医療分野に限ったことではなく、開発一般について同様のことが言える。
(※2)本書を読む前から、人類学に対するイメージがあまりよくないだろうなとは思っていた。私の勝手なイメージを書いてしまえば、国際保健医療分野における状況を中学校3年生の教室にたとえると、医療従事者は、まじめな女子学級委員。「先生、○○クンは、そういうことをしたらいけないと思いますっ!」 それに対する人類学者は、クラスの後ろの方に座り憎まれ口をたたいているヒネクレモノ。「うるせぇな、まじめなことを言ってれば、全部正しいとでも思ってんのかよっ!」 もちろん、あくまでも私のイメージの中の話で、しかも傾向を話しているのであって、医療従事者のすべてがまじめだとか、人類学者の全員がひねくれているなどといっているわけではない。
(※3)ことによると、グローバル化が進みすぎると、対象集団がなくなり仕事がなくなると思っている文化人類学者もいるかもしれない。
(※4)しかし少し腑が落ちないことがある。日本人同士で関係が構築できない人類学者が、どうして異文化コミュニケーションを通して、相手のことを理解できるのだろうか。不思議といえば不思議である。

7.キーワード
▼第2章
・地縁化している男系親族集団(p.26)
・社会変化の最先端の場でにある公教育や医療の現場(p.27)
・・グシイの家族計画に関する論考:シルバーシュミットの報告書(p.30)
・SDA(Seventh Day Adventist)
・精管切除はグシイの間では一般に「ウシの去勢手術を人間に施すもの」
・恥の人:自分にとっての親、または子どもの世代 上下の隣接世代。彼らとは性器、性交、裸体に関連したことば、生理作用を示唆するようなことばを使うことは厳禁。(p.38)握手などの身体接触もしてはならず毛布や下着など直接肌に触れるものの貸し借りも親子間では禁止されている。(p.46)

▼第3章
・文化相対主義は、「人間は、それぞれが独自の価値を持った異なる文化に所属しており、一つの文化の価値や認識の基準を別の文化に単純に当てはめて理解することはできない」、という考え方。自分のものとは異なるものの見方や基準などは、(略)単に文化の違いによって生じているものと位置づけられるだけで終わってしまう、とする。(他にも、自文化中心主義的な文化相対主義)(p.79)
・79ページにある文化人類学の役割が、国際保健医療協力の中で人類学のあり方を提示している。
(1)対象地域の人びとの価値観や行動様式などに関する知見を提供すること
(2)自らのものの見方と基準を相対化すること

▼第4章
・原因は自然的なものと理解されており西洋医学に治療が求められる。(p.109)
・伝統的病気であるためと解釈できる。治療も西洋医学を実践するヘルスセンターや製薬会社の薬ではなく、専門の伝統医を必要とする。

▼第7章
・生態学か生態学のアナロジーか
・フィールドワークで感じることは、自分がその社会に対して何もわかっていないという事実である。
・GOBI
・国際保健と熱帯医学の違い(p.188)


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