健康格差と正義―公衆衛生に挑むロールズ哲学 書評


格差をどう捉えるか

 本書は三部構成である。第一部には、ダニエルズ、ケネディ、カワチによる論文が収録されている。第二部にその論文に対する外部識者によるコメント・批判を収録し、第三部でダニエルズらがそれに答える、という形式である。

 コメント、批判をしているのは、マイケル・マーモットなど一線で活躍している学者である。批判を含めて理解することで、ダニエルズらの主張の理解もより一層深まる。健康科学・看護学科の授業でお世話になった児玉さんによる監訳者解説も読みやすい。公衆衛生の倫理を勉強する上では必読の書だろう。

ダニエルたちが言いたいことは、
・社会経済的格差の大きい国々においては、健康格差も大きい(p.3)
・アカデミックな生命倫理や世間の保健医療改革をめぐる議論は、総じて医療の提供時点ばかりに関心を集中しがちであったために、医療制度そのものよりも「上流」に存在する健康の決定要因について、十分な注意を払ってこなかった。(p.35)
 ※上流というのは、「保健医療セクターの外部にある要因(p.111)」をさし、健康に影響を与えるそもそもの問題という意味。
・健康格差の縮小を望む社会は、進んで省庁横断的な活動に取り組む必要がある。(p.111)
といったところであろう。特に異論はない。ただ、まだ読みが浅いのだろう、ロールズの正義論を持ち出す妥当性がよくわからない。※後述

Ⅰ.健康格差という問題自体に関して

しっかりとした「区別」
 格差問題はきわめて複雑である。立場により問題がどうあるべきかという理想像は変わりうる。またあるべき姿へのアプローチの方法も異なる。論点をはっきりとさせるために、きちんと整理しながら議論を進めていく必要があるだろう。
・どうありたいか?
立場によって大きく変わるので、自分の立場をきちんと明示する必要もある。「どうありたいか」についてコンセンサスを形成してからではないと各論に移っても仕方ないだろう。
・どうありたいか?/どう出来そうか?
この二者の混同は、いろいろなところで見られるが、似ているようでまったく異なる。
・どうありたいか?/どうであるか?
これも上と同様。将来を描く上で「現在」に振り回されてはいけない。

格差が成立する条件
 ひとつの家族の中に格差は存在しない。人類学的集団でも格差は存在していなかったとされる。これらのことの意味はいったいなんであるのであろうか。
 私は、格差を生むか生まないかは、「他者を知覚して、その立場に共感する」ことができるかどうかにかかっていると思う。
 昔に比べ、あまりにも世界が広がった。社会を構成する人数が、10人、100人ならともかく、100万人、1億人、100億人と増えていったときに、他者の存在を感じることができるだろうか。情報通信技術の発達で、彼らの窮状が情報としては私たちの元に入ってきたとしても、その情報は身体性に欠けている。困窮の中に暮らす人に対して何かする動機、何かしなくてはいけないというある種の「使命感」を感じにくくなってしまった。本書で言うところの「Social Cohesion」や「共同体への愛着」が、欠如しているわけである。
 このような状況で、格差がなくなることって、残念ながら、まずないだろう。だから私は、同質な人口集団を仮定しているロールズを持ち出しても、意味がないと思っている。
(一国内でもそうであれば、グローバルレベルでは言うまでもない。でももっと深い問題は、近くにいる人に対してそういったものを感じているかといえば、それはそれで感じていないということだ。社会全体が断裂してしまっている。)

「仕方ない」格差
 グローバル化の流れは、国際レベルでの分業化を進めている。ダニエル・ピンクの『ハイコンセプト』の前書きで、大前研一が書いていたことは衝撃的だった。

経済のグローバル化によって、中国で生産できるものは中国で、ITなどインドで出来るものはインドでというように、少しでも人件費が安くすむ地域へ産業は引っ張られる。それを日本でやろうとなると、月給が五万円とか一〇万円でないと引き合わない。(中略)人件費、すなわち、所得は安いほうに強く引っ張られる。
 一方、上のほうはといえば、アメリカのプロフェッショナルに引っ張られる。(中略)
 このように、上のほうはアメリカのプロフェッショナルに引っ張られ、逆に下はインドや中国に引っ張られる。つまり、人口分布に中低所得層と高所得層という二つのピークがある「M型社会」になってしまうわけである。

 格差を埋める努力をするのは私は当たり前のことだと思うけれども、格差が生じざるを得ない世の中になっていることも忘れてはいけない。確実に私たちはグローバル化の恩恵にあずかってきた。言ってみれば、そのしっぺ返しが始まったということであろう。
 そのとき、断裂した社会ではどうしようもないから、どうにか現状を変えなければ…。もちろん、個々人が出来ることはすごく少ない。でも、だとしても、この人みたいに勝手なことを言わずに、当事者意識を持って生きることが、知識層には必要だ。(参照:On and Off[渡辺千賀]テクノロジー・ベンチャー・シリコンバレーの暮らし)

Ⅱ.メモ

ダニエルズ、ケネディー、カワチらの主張から
・ロールズは完全に健康な人口集団を仮定した上で、次のように論じた。すなわち、正義にかなう社会は、人々に平等な基礎的自由を確保し、確固とした機会の平等を提供し、そして不平等が容認されるのは最も恵まれない人々にとって利益となる場合にのみに限定しなければならない、と論じたのである。(p.6)
・相対的所得仮説 relative income hypothesis(p.10)
・二つの集団間の健康格差が「不公正である」(inequitable)のは、どのような場合であろうか。
 →回避可能、不必要、不公平(p.15-16)
・理性的な人なら健康をほかの財と交換することは控えるはずだという主張は、ある程度はもっともらしい。健康を失えば、人生がもっとも大切なことを追求することが出来なくなるかもしれない。(p.24)
(こんなのうそだろう)
・健康に関する社会正義と個人の自由が潜在的に対立している(p.138)
・米国のように大きな格差を許容している社会では、保健医療のような共同体の利益になることについて合意を形成することがきわめて困難である。「持てる者」と「持たざる者」の社会的距離が大きい場合、すでに健康保険に加入している人が保健未加入の人の窮状を気にかける動機はほとんど存在しないのである。(p.110)

識者の批判より
・社会格差は単に不健康に直接寄与しているように見えるだけであり、真の原因は貧困なのである。(p.51)
→p.63にも同様の内容
・健康格差が不公平あるいは正義に反するのはどういう場合か、またその理由は何か(p.54)
・米国は、ダニエルズらが提示したユートピア的な課題に取り組む前に、医療へのアクセスをより公平にするという実行可能だが困難な課題に取り組むべきである、とわたしは強く主張したい。(p.65)
・第一に、社会正義の向上によって健康指標が改善する(より正確には、するかもしれない)からといって、米国人がそのような変化を支持する気になるなどということは、まずありそうもない。(中略)所得や政治権力の著しい格差(中略)に対して米国市民が寛容であることは、困惑と失望の種である。だがこれが現実であり、この現実を踏まえて変革が起こされなければならない。(p.69)
→健康に価値を置く:温度差
・富の再分配と所得の平等への嫌悪感
・先進国のいたるところで歓迎されているのは、より大きな社会経済的格差であり、より小さな格差ではないのである。(p.71)
(本当ですか? どこの誰の発言?)
・トリックルアップ効果
(トリックルダウンという言葉は一般的)
・集団における健康寿命の分布のどの程度までが、危険な行動を好む個人が十分な情報に基づいて行う選択によるものなのだろうか。(p.86)

—–
・well-beingの訳:よき生(p.84)は適切なのだろうか…。きっと訳者も迷ったからwell-beingと括弧に入れて併記したのだろうけど。


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