フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門 書評


「現実」が持つ圧倒的な存在感の前に「理論」は屈する

 フィールドワークの醍醐味は、フィールドに出てはじめて遭遇する「現実」の圧倒的な存在感に触れることにあると思う。

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 学部2年生のころ、駒場のフォトジャーナリズムのゼミに入った。スーザンソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を教科書に、自己と他者の関係、またフォトジャーナリズムだったので先進国と途上国の関係、そしてその両者を跨ぐ存在《エージェント》である報道写真家について、喧々諤々、本当にいろいろなことをディスカッションした。写真をとるという営為がいったいどういうことなのか。3年生に進学したらカメルーンに行くことを決めていた私は、先進国の人が途上国に援助することがどういう意味をもつのか、あれこれと考えた。私は大学に入ってからずっとアルバイトばかりしていたので、東大の「まじめな感じ」にその時はじめて触れて本当に楽しかったし、なんだか何か大層なことをすごく考えた気がしていた。

 ただ実際にカメルーンに行って、ボランティアもどきをして、いろいろと葛藤をする中で、駒場のあの小さな部屋の中で一生懸命になって話していたことが、本当に「どうでもいい」ことだったという感覚にとらわれた。「現実」が持つ圧倒的な存在感に、私の「理論」は屈服せざるを得なかったのだ。別に「理論」を完全に否定するわけではないけれども、やはりその場にしかない、その場でしか感じることができないものは、やはり存在する。

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 この本は面白い。前半分は、筆者が学生のレポートを論評しながらフィールドワークを進めるという構成の面白さがある。後半分に書かれた民族誌自体の内容もまぁ面白い。でもどうしても書籍には書籍の限界があって、「現実」の生々しさ、たとえば、はじめて会う村人とのあいだにある距離、質問されても邪険に扱われて感じる情けなさ、村人が考えていたことが氷解して解かりひざを打つ感覚、仕方なく吸うタバコの煙、飲みすぎて吐きながら感じるやるせなさとか、そういったものを感じることはできない。読んでいてなんかきれいな完成品を見ている感覚にとらわれた。結局は、読んでいる読者が、「書を捨てて、街に出る」しか、フィールドワークに挑戦したことにはならないし、フィールドワーカーがなぜフィールドに出るのかわかってもらえないと思う。

 まぁ、ある意味当たり前のことだ。でも書籍を読んで他人の経験を追体験し、フィールドワークをした気になる人が、まわりに少なからずいる気がするのは私だけだろうか。そしてそれは、フィールドワークという言葉を人生という言葉に置き換えたときに、もっとその傾向が強まる気もする。


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