Stop Trying to ‘Save’ Africa


David Bowie私の愛読書であるグローバルエイズアップデイトの記事の紹介。2007年7月15日のワシントンポスト紙に載せられた評論である。論者は、24歳のウゾディンマ・イウェアラ氏。アフリカの少年兵の姿を描いた小説「Beast of No Nation」の著者である。

寄稿した文章の中で、彼は、アフリカに対する西欧社会の反応が極端に偏っていると述べている。いくつもの貧困削減を訴えるキャンペーンのなかで、アフリカの〈悲惨さ〉が「過度」に強調されていたり、マスコミが伝えるアフリカが暴力や汚職などの〈不正義〉に満ち溢れていたりするというのだ。

確かに、私たちが日本にいて伝え聞くのは、貧困にあえぐ子どもたちやエイズの惨禍、アパルトヘイトなどなど、いずれもマイナスのイメージである。果たしてこれらの報道は「過度」にアフリカの悲惨さを伝えたものだろうか。「過度」かどうかは、真実と報道の伝えるアフリカ像がどれだけ乖離しているかに拠る。
Such campaigns, however well intentioned, promote the stereotype of Africa as a black hole of disease and death. News reports constantly focus on the continent’s corrupt leaders, warlords, “tribal” conflicts, child laborers, and women disfigured by abuse and genital mutilation.

彼の一応の本意は、アフリカ諸国のオーナーシップを確保することが何よりも大切である、というところにある。また、決して西側諸国の援助に感謝をしていないというわけではないとも述べている。しかし、私が読んでいて感じたこと、それは、彼のこの疑問が、援助をするという行為自体に疑問を投げかけるものでもあり、私たちがこれからどのような世界を作り上げていくか考えていく上で、非常に重要な問題である、ということだ。

◇   ◇   ◇

私は、なんで「アフリカに行ったの?」と問う友人たちに、半分ふざけて、「ボランティアをしに行く自分に酔うためだよ。」ということがある。それは、ボランティアという「イイコト」をすることに対する照れ隠しでもあるが、援助というもの自体が孕む、関係の非対称性を感じての自戒でもある。つまり、援助だとかボランティアという言葉の背後には、「助ける―助けられる」という関係性があって、それが逆転するということは決してないということだ。

ウゾディンマ・イウェアラの指摘は、私を含めた、イイコトをしていることに「酔っている」人々を痛烈に批判するものだ。そして、酔うため「だけ」に、アフリカの像を〈悲惨〉なものにするのはよしてくれといっているのだ。それがイメージの再生産をして、prototypeを強化していくからだ。

確かに、アフリカにたくさんの孤児がいることは「事実」であり、エイズによりたくさんの人々がなくなっていることも「事実」である。汚職や内戦も後が絶えない。これも「事実」である。(補足:本当に真実であるかどうかは、報道によっているので、ここで事実と言い切ることはふさわしくないかもしれません。したがって、すべてにかぎ括弧をつけました。)
しかし、報道するという営為においては、真実の一部しか切り取ることができないという限界があって、カメラのフレームから切り落とされた情報は、遠く離れた私たちからはアクセスすることができない。(←超、今橋映子。)また、募金を獲得することによって活動が可能となるNGOの伝える「世界」は、募金を集めるためのappelingな姿を強調したものになっているのかもしれない。しかしながら、私たちには、その本当のところはよく分からない。

情報が氾濫している現代に生きる私たちが、大量の〈イメージ〉を消費しているのは紛れもない事実である。ビールを飲んでいる私にとって、それがキリンであろうがアサヒであろうが、実はたいした差はなくて、それよりも、誰々がCMに出ているとか、あれを飲んでいるとなんとなく大人っぽいとか、そういったイメージが消費行動を決定付ける要因になっている。(まぁ、だからこそ、高いギャラを払ってまで有名人をCMに起用するのだろう。) 
なぜBIG ISSUEを購入するのではなく、World Visionに募金するのか。ほかにもいろいろな理由はあるだろうが、実は根本的に、World Visionというブランドの持つイメージや、寄付しちゃうなんて、私って社会に貢献しているo(^▽^)oといったイメージが、寄付行動をとらせる最大の要因といえるのではないだろうか。

今回一番問題になるのは、貧困削減キャンペーンの場合は、消費されるものが生身の人間であるといことだ。消費したいだけ消費してポイッ!というわけには行かないのである。特に、20年、30年後の対等なパートナーシップを築くためには、である。そのためには、誇張した姿をアピールすることは、その目指すべき姿を遠ざける。ウゾディンマ・イウェアラが語っているのは、そういうところだ。

もちろん、NGOの中にもクリティカルな見方をしているヒトはたくさんいて、そういう限界も分かった上で、(いや、ことによるとそういう限界が分かっているからこそかも知れないが・・・。)キャンペーンをやってはいるのだと思う。ベストソリューションは間違いなく見つからない状況では、やはり、ウゾディンマ・イウェアラの声を私たちは常に耳に入れながら、ベターソリューションをもとめて日々東奔西走しながら頭を悩ませ続けないといけないだろう。

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▼確かに、ボビー・オロゴンが、いつまでもおかしな日本語を話さないといけないという事実は、日本人のアフリカ人観がそういうものであるというものの裏付けてもあるし、またそれを強化するものでもある。(しかも、そういう状況に置かれたのがセイン・カミュではなく、ボビーオロゴンであるということがミソである。アグネスはただおかしいだけ。)
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▼そもそも、あの広大なアフリカに対して、私たちがひとつのイメージで語ろうとすること自体がまずそもそも相当乱暴である。ゲイシャ、フジヤマ、サムライと大して変わらない。アフリカは日本の何倍の面積があると思っているのだろうか。
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▼なんか、伝えたいことが伝え切れていない気がする。今までの報道だったり、人々の反応って言うのは、「アフリカを助けることがえらい」ではなく、「アフリカに住んでいるわけでもないのに、わざわざアフリカを助けているなんてえらい」であったんだと思う。だから、そのロジックで行くと、ウゾディンマ・イウェアラが言うような、アフリカにも一生懸命やっているひとがいるんだという反論は、なんだか的をはずしているような気がしなくもない。
True to form, the Western media reported on the violence but not on the humanitarian work the state and local governments — without much international help — did for the survivors. Social workers spent their time and in many cases their own salaries to care for their compatriots. These are the people saving Africa, and others like them across the continent get no credit for their work.
が、私たちは、これから、アフリカの問題とかアジアの問題として貧困問題を捉えるのではなく、アフリカで起こっている世界の問題として、取り組んでいかないといけないということを考えると、やはり、ウゾディンマ・イウェアラの反論はとても大きな意味を持つのだ。うまく、文章にできない。ここにもコミュニケーションの限界が・・・。


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