できる研究・すべき研究・やりたい研究


phd051816s

http://phdcomics.com/comics/archive.php?comicid=1883

 今日でちょうど3か月。毎日が研究室と家の往復で、家に帰ってきてからも、休日でさえも仕事するだけの日々。これだけずっとやってられるって、もしかすると相当研究が好きなのかもしれない笑 それが分かっただけでもアメリカに来た甲斐があるってもんだ。漫画のように時間を過ごしてしまうことはよくありがちなことなのだけど、幸いなことに今のところはそうなってない。2年間のフェローシップが終わったときにどうするか、本当は考えていないといけないのかもしれないけど、とりあえずしばらくは何も考えずに研究に没頭したいと思う。

正しく成果主義でありたい

 Carolina Population Centerにはいろいろな分野のポスドクやプレドク(predoctoral trainee)の学生がいる。疫学、公衆衛生学、栄養学、地理学、社会学、人類学・・・それぞれの分野の様子を聞いていると、PhD取得の大変さとか、投稿論文一本のボリューム感とかが分野ごとに全然違うことに気が付く。日本とアメリカでの差はもちろんあるのだが、アメリカの中でも十分に差が大きい。たとえばラボミーティングに出させてもらっている人類学の大学院生は6年~9年かけて取得するのが普通らしい。コースワークを3年して、フィールドワークして、サンプルやデータ取って、測定して、解析して・・・とやっているとどうしてもかかってしまうという。でもCPCの研究チームにいる栄養学専攻の大学院生たちは学位取得にそんなに時間をかけていない。論文一本の大変さも、社会学の論文はやっぱりガッチリしているけどPublic Healthは比較的あっさりしている(これは日本にいた時から分かっていたことだけど。)。

 何が言いたいかというと、アメリカの研究者のたまごでも人類学なんかだと、フィールドワークをする日本の若手研究者が感じているようなことを考えているということ。分野ゆえに論文数が増えず、でも自分をmarketableにして就職の機会を増やさなきゃ、でもどうしよう・・・ムニャムニャ・・・と。もっとも、アメリカの人類学の若手が「苦しんでいる」ことが分かったからって、別に励まされるわけでもないのだが、なんだか諦めがつく苦笑
 自分をmarketableにすることはすごく大切なことだ。研究者が論文書いていなきゃ、さすがに説得力がない(というか話す内容がない)。それに論文を書いていないと後輩や学生にきちんとした指導をして、次世代にきちんとバトンタッチできるはずがない。でも同時に気を付けないといけないことがあると思う。

 論文数を増やすことだけを考えたら「できる研究」だけをすることになってしまう。
 社会に役に立つことだけを考えたら「すべき研究」だけをすることになってしまう。

 やっぱり、全然marketableとかじゃなく、飢え死にしそうになってでも「やりたい研究」を心の中に常に置いておくことが大切なんだなと思う。たぶんそれが日々の会話とか、プレゼンテーションとか、申請書とかから滲み出てくるようになると、自然とmarketableになっているような予感(というか期待?)がするし、そういうコミュニケーションをする中で「できる研究」と「すべき研究」と「やりたい研究」が自分の中で重なってくることが一番良いのだと思う。どうしても、「できる研究」「置きに行った研究」ばかり考えて、おじん臭い研究になりがちだから、気を付けないと。大きな木を育てないといけないんだった!

日本人研究者はバイアスを生み出している!?

 メタアナリシスの授業でPublication Biasについて先生が話していた話。「日本人の研究者が話していた。有意な結果が出たら英文誌に出して、有意でなかったら和文誌に出すと。」 笑った。その通りだと思った。確かに英文誌にも和文誌にもPublication Biasを生み出す良くないことなので、笑っている場合ではないのだが、こればっかりはなかなかなかなか直らない気がする・・・。どうしたものか。


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