インターネットがもたらすのは濃縮された人間社会


糸井重里の『インターネット的』を読了。2001年に新書として出版された本書が、あまりにも今の様相を捉えているということで評判になり文庫としてリュニューアルされたようだ。

内容は、インターネットの登場によって人のコミュニケーションのあり方が変わったこと、そして、その変わったありようを「インターネット的」という言葉で説明している。その三つのキーワードは、「リンク」「シェア」「フラット」。

自分の毎日に引き付けながら思ったことは、研究者のあり方もインターネットによって大きく変わったなということ。たとえば、ResearchGate(http://www.researchgate.net/)のような研究者向けのSNSの登場やOpen Accessジャーナルの登場によってリンクやシェアという文化は大きく変わった。研究会の情報もMLで回ってきて、ふと参加したりすることが可能になった。論文はオンラインでアクセスするから図書館にはめったに行かないし、もっというとオンラインでアクセスできない図書は引用を避けてしまう。

何よりも、いろいろな人を「先生」とすることが出来るようになった。20年前であればたった一人の先生に師事し、何を言われてもおっしゃる通りだと信じていられた。時に東大話法で誤魔化されていたことも気が付かずに幸せに生きていただろう。でも今なら簡単に反駁できる。それは他により確からしい真実がネットに転がっているからである。これはまさに関係性がフラットになったということだ。今の世の中、「先生」のあり方は20年前とは当然違って、ものを知っていることだけでなく、それをうまく「濃縮」して学生に伝える能力だとか、学生に他の研究者を紹介して研究ネットワークのハブになる能力がすごく重要になってきたのだと思う。それって学問が進化するうえではとても大切なことだ。

そしてすごく感じたのは、置きに行った研究は世の中にささらないということ。インターネット時代において大切なことは、自分の言葉をきちんと持つこと。それは、研究者の意見という意味かもしれないし、社会人としての何気ないつぶやきという意味かもしれないけど、どうであったとしても(良くも悪くも)「手汗にまみれた感じ」があることが味のある研究として世の中に残るうえで重要なのかなと思う。いや、そういう研究が世の中に残るのであろう。そういう思いのたけを世の中に発信していると、どこかのだれかがなぜか興味をもって共鳴してくれるのだろう。

高校生のときの進路相談説明会に、フジのニュースジャパンに当時出演していた宮川キャスターがいらした。「伝える方法は入社してからでも教えられるけど、伝えたい思いはそれぞれが自分で経験して持ってこないと始まらない」というようなことをいっていた。糸井さんが書いていることを反芻しながら、思い出したのはそのことだった。

<メモ>
みんなが同じプライオリティを持っていることが、社会の常識なるものを下支えしていた。でも、その常識が、いまや紅白歌合戦の視聴率レベルにまで降下してきたように思います。(p.44)
邱さんが連載しているコラムの中に「異邦人の目で自分の街をみてごらん……」といった内容のものがあったんですが(p.67)
勝ちと負け、強いと弱い、という二項対立的な思考にすっかり慣れきってしまったいま、そういう枠組みにおさまらない「わけのわからないこと」を考えたり語ったりしたいという雰囲気が自然に出てきているようです。(p.103)
いまの映画やCDのランキングは、それを選んで買えるヒマのある人が決定してるのですね。(p.106)
山岸俊男さんの『安心社会から信頼社会へ』が『ほぼ日』の母なら、梅棹忠夫さんの『文明の情報学』は『ほぼ日』の父にあたります。(p.118)
どう書くかよりも、どんなことを書くかのほうに面白さの栄養素は多く含まれています。(p.122)
インターネットができたことで、「誰でも思ったことを垂れ流せる」という意見は否定的にせよ肯定的にせよ、よく語られてきました。しかし、もっと重要なのは、垂れ流せるとわかったおかげで、「思ったり考えたりすることの虚しさがなくなった」ということだと思います。(p.172)
愛情も欲望もあいまいなままに医療用のバイアグラを使って意味なくポテンシャルを高めているオヤジって、いまの時代をよく表しているような気がしませんか。(p.194)
インターネットそのものが何か素晴らしい魔法のわけではなく、インターネットは人と人、人の考えや思いをつなげるだけですから、これによって社会が豊かになっていくかどうかは、それを使う「人」が、何をどう思い、どんな考えを生み出すかにかかっているのではないでしょうか。(p.194)
「ピカソ殺すにゃ刃物は要らぬ。世界が目隠しすればいい」なのであります。(p.223)
作家が自分の人生観や世界観にまったく触れないところで、「どうせ、みんなはこういうのがうれしいんだろう?」というような、想像上の「多数」に合わせようとした表現には、受け手として心を動かされることもないと思います。(p.239)
これからの時代は、大きさは別にして、あらゆる場面で立候補しないで生きていくことが、困難になるのではないでしょうか。(p.244)
グーテンベルクの時代も、ゴールドラッシュの頃も、人のだいたいの基本は変わってないんだ。(p.256)

小さい気持ち、弱い力を集めて得られる大きなイメージ。(p.267)


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